子供の頃、ご多分に漏れずサンリオ商品にそれなりの愛情を注いでいた私だが、そのなかでもとくに「マイメロディ」というキャラクターが好きだった。
「マイメロディ」はピンクの頭巾をかぶったウサギである。
こんな風に書くと未も蓋もないが、子供の頃はとにかくこのウサギが大好きで、イラストを描こうとして、たいへんな苦労したのをよく覚えている。
顔の中にもうひとつ境界線のある生き物というのは、とても描きにくい。
ドラえもんの青い部分と白い部分のバランスがどうしてもおかしくなるのと同じように、マイメロディのピンクの部分と白い部分がどうしてもうまくいかない。
ターバン野口を折るほうがまだ簡単である。
まあそれはともかく。
ある日の朝、出勤前にテレビをつけると、この「マイメロディ」のアニメが放送されていた。
物言わぬサンリオキャラクターが元気に動き回っているのはなんだか不思議な感じがした。
なんとなくそのまま見ていると、マイメロディがこんなことを言い出した。
「今日はウタちゃん(←一緒に暮らしている人間の女の子)の誕生日。
私もとっておきにきがえなくっちゃ(ハート)」
そしておもむろにタンスの引き出しをあける。
そこにはピンクのウサギ耳がぎっしりと詰まっていた。
その中から1枚を取り出し、カーテンの陰に入る(ここからはシルエットのみでお楽しみください)。
頭巾を取り替える姿は良い子には見せられないらしい。
「これはマリーランドのママが送ってくれたの(ウフ)」
先ほどとの違いがよくわかりません。
そのうえオバケのQ太郎と著しくキャラがかぶっています。
そもそもピンクの領域が頭巾(取替え可能)であったことも、このとき初めて知った。
色々な意味で、衝撃をともなう一日の始まりであった。
2006年12月29日
2006年12月17日
小説以外
■■小説以外■■
恩田陸『小説以外』を読んでいる。エッセイである。
私はふだん、ほとんどといっていいほどエッセイを読まない。
教科書的なものを読むときは別として、文章を読むという行為は、そこから自分で考え、結論を出すことにも喜びがあると思っている。
結論がハッキリ書かれているエッセイは、なんだかつまらないのである。
知識を得るにはあいまいで、自分で考えるには明快すぎるのだ。
それでも時々こうして手に取ることもある。
たいていは熱心に読んでいる作家が出したエッセイである。
時代を超え、歴史に刻まれるのは書いた人間の名前ではなく、文章(物語)そのものだ。
と、恩田さんも『小説以外』のなかで書いており、それはまったくその通りだと思うのだが、それでも素晴らしい作品を創り出した人間に対する興味は尽きない。そのうえ、書き手の文章力に絶対の信頼があるから、安心して読める。
このエッセイのなかで特に印象に残ったのは「MPに捧げるユージニア」という章である。
恩田さんはこのMP、ミシェル・ぺトルチアーニというミュージシャンをこよなく愛している。
『 同世代に好きなミュージシャンがいるというのは幸せなことだ。
他にも好きなミュージシャンはたくさんいるが、
生み出す全てのフレーズを愛することができたのは
今までのところ彼しかいない 』
この文章を読んでいて、ピロウズの山中さわお氏を思い出した。
私にとって、生み出す全てを愛することができるミュージシャンは、今のところ彼しかいない。
2006年12月15日
間宮兄弟

■■間宮兄弟■■
「だって間宮兄弟を見てごらんよ。いまだに一緒に遊んでるじゃん」
そんな帯の言葉に惹かれて購入した江国香織『間宮兄弟』を読む。
久しぶりの江国香織はなかなかよかった。
江国さんによると、間宮兄弟は揃って「そもそも範疇外。ありえない」出で立ちの男性である。そんな厳しい現実そのままに、物語の中でも(物語の中なのに)間宮兄弟の恋はやっぱり実らない。
それでも間宮兄弟は二人で毎日幸福に暮らしている、ように見える。
兄はビール、弟はコーヒー牛乳を飲みながらビデオでお気に入りの映画を見たり、朝までジグソーパズルに熱中したりしながら毎日を暮らしている。
兄弟それぞれに好きなものがたくさんあって、それらがひとつひとつ丁寧に描かれる。
江国香織といえば、美しく感覚的な言葉でふわふわと綴られる恋愛小説というイメージがある。
しかし、仲のよい兄弟、あるいは姉妹を描く筆力こそ彼女の最大の魅力だと個人的には思っている。
江国さんの描く兄弟、あるいは姉妹はひとりでも十分魅力的だが、二人で過ごしている様子がまたすばらしく惹きつけられる。
長い時間を一緒に過ごしてきたもの特有の暖かなつながりと緩やかな孤独。
彼女の描く兄弟、あるいは姉妹は深い深いところで結びついていながら、お互い限りなく孤立しているのだ。
『間宮兄弟』の間宮兄弟も、間宮兄弟が恋する本間姉妹もとても魅力的だ。一人っ子なので実際のところはわからないが、彼女の描く兄弟姉妹を見ていると、自分にも姉か妹がほしくなる。
***
というようなことを昔日記に書いていたのだが、映画はまだ見ていない。
当時は忙しくて、映画どころではなかったからだ。
仕方がないので、ケーブルテレビで、映画の主題歌RIP SLYME「Hey,Brother」のPVを繰り返し見ていた。
2006年12月11日
かもめ食堂

■■かもめ食堂■■
今更だが『かもめ食堂』を見にいく。
見たい見たいと思いつつ、上映期間が終わってしまってションボリしていたのだが、
都会とはいえない街の、新しいとはいえない映画館で上映されると知り、張り切って出かけてみた。
上映20分前からしかチケットが販売されず、
館内にも入れてもらえない(←扉に鍵がかかっている)映画館ではあるが、
こういうときはとても助かる。
『かもめ食堂』は思ったとおり、というより思いのほか良い映画だった。
フィンランドのヘルシンキで食堂を営む日本人女性サチエ、
そこにミドリとマサコという二人の女性がするりするりと入り込んでくる。
それから何が起こるというわけでもない。淡々と日々の生活が綴られていくだけである。
けれどヘルシンキの風景は美しく、ゴハンはおいしそうで、女性たちは魅力的だ。
いつまでも、いつもまでもこの食堂を見ていたいと思わせる。
「やりたくないことを、やらないだけなんですよ」
そんな風に生きるのは、実はとてもむずかしい。
見終わってからどうしてもおにぎりが食べたくなり、
家に帰ってすぐに、ご飯を炊いておにぎりをつくる。
4つ作って夫と2つずつ食べた。
2006年12月09日
八月の鯨
■■八月の鯨■■
久しぶりに『八月の鯨』を見る。
ここ10年ずっと、私の中のベスト1の座をキープしている映画である。
実家にいた頃から、それはもう何回も見ているが、結婚してからは一度も見ていなかった。ビデオテープを実家においてきてしまったからである。
久しぶりに見た『八月の鯨』は、なにひとつ色あせていなかった。
平均年齢80歳以上の人間がたった5人しか出てこないし、とくに大した出来事がおこるわけでもない。
しかし私がこの映画に飽きるということは決してない。
それどころか、美しい映像がゆっくりと、シフォンのように私に降ってくる。見るたびに必ず降ってくる。
それは私を優しく柔らかく包んでくれるけれど、同時に心をきゅっとしめつけていく。
失われたものへの憧憬。
その憧憬とともに、きちんと生きていくこと。
それを思い知らせるために。
2006年12月06日
体質と環境
きっちりと人生を過ごす人が好きだ。
それは規則正しい生活をする、とか、待ち合わせに遅れない、ということとは少し違う。
生きていくなかでこなしていくべきひとつひとつのことにきちんと集中する、とでもいえばいいだろうか。
例えば朝起きて、ベッドから出る。ベッドを直す。トイレに行く。お湯を沸かしてお茶を入れる。
そういったひとつひとつの動作にあせらず集中できる人、というのがとてもうらやましいのである。
鈍い割に中途半端にせっかちな私はどうもひとつのことに集中できない。
ベッドから出た時点でベッドも直したいしトイレにも行きたいしお湯も沸かしたい。
そんな考えが一気に押し寄せてきて、結局何をしたらいいかわからずに家の中を無駄にうろうろする。
そして気がついてみれば水の入ったやかんが台所にあり、ベッドは直してあるものの部屋着はぐちゃぐちゃのまま(←私にとってベッドを直すということは部屋着をたたむことも含まれる)、完了しているのはトイレだけというなんとも中途半端な状態が発生する。
これはもう性格というより体質的なもので、おそらく一生治らないだろうと半ばあきらめていたのだが、実は最近、新事実が発覚した。
今のマンションに引っ越してから、部屋が片付いた状態だと、私は家の中に限ってひどく優雅に動くことができるのだ。
ベッドから起き上がり、布団と部屋着を丁寧にたたみ、トイレに入って一呼吸おき、やかんに水を入れて火をかけ、ゆっくり身支度にとりかかる。そんなことができてしまう。
実は体質ではなく環境の問題だったのかもしれない。
とにかく私は今、ひどく穏やかに幸せな気持ちで朝を過ごしている。
と、いうのは今日の朝、会社に遅刻した理由にならないだろうか。
それは規則正しい生活をする、とか、待ち合わせに遅れない、ということとは少し違う。
生きていくなかでこなしていくべきひとつひとつのことにきちんと集中する、とでもいえばいいだろうか。
例えば朝起きて、ベッドから出る。ベッドを直す。トイレに行く。お湯を沸かしてお茶を入れる。
そういったひとつひとつの動作にあせらず集中できる人、というのがとてもうらやましいのである。
鈍い割に中途半端にせっかちな私はどうもひとつのことに集中できない。
ベッドから出た時点でベッドも直したいしトイレにも行きたいしお湯も沸かしたい。
そんな考えが一気に押し寄せてきて、結局何をしたらいいかわからずに家の中を無駄にうろうろする。
そして気がついてみれば水の入ったやかんが台所にあり、ベッドは直してあるものの部屋着はぐちゃぐちゃのまま(←私にとってベッドを直すということは部屋着をたたむことも含まれる)、完了しているのはトイレだけというなんとも中途半端な状態が発生する。
これはもう性格というより体質的なもので、おそらく一生治らないだろうと半ばあきらめていたのだが、実は最近、新事実が発覚した。
今のマンションに引っ越してから、部屋が片付いた状態だと、私は家の中に限ってひどく優雅に動くことができるのだ。
ベッドから起き上がり、布団と部屋着を丁寧にたたみ、トイレに入って一呼吸おき、やかんに水を入れて火をかけ、ゆっくり身支度にとりかかる。そんなことができてしまう。
実は体質ではなく環境の問題だったのかもしれない。
とにかく私は今、ひどく穏やかに幸せな気持ちで朝を過ごしている。
と、いうのは今日の朝、会社に遅刻した理由にならないだろうか。
2006年12月03日
戦争の法

■■戦争の法■■
『戦争の法』を読む。
分厚いハードカバーの上に、開いてみるとそれはもうぎっちりと文字が詰まっている。
題名も題名なので、持ち歩いていたここ1週間ほど、いろんな人に
「えらい本読んでんな……」
とギョッとされた。
しかし、実際の戦争についての話ではない。完全なフィクションである。
時は冷戦時代、まだソ連があった頃、日本のとある県(N***県と書いてある)が独立宣言をする。
日本人による日本国内の事件であったにも関わらず、そこにはアメリカとソ連の力が確実に働いていた。
そんな状況下のN***県に生まれた中学生の「私」と「千秋」。
二人はやがて中学をドロップアウトし、反独立政権のゲリラに身を投じることになるのだが――。
最初は確かに読みづらかった。
感情的な描写が一切そぎ落とされた、事実だけの硬質な文章。
しかし、いつのまにかそれに引き込まれていた。
「私」と「千秋」の辿る数奇な運命から目が離せなくなった。
佐藤亜紀さんという女性が書いている小説なのだが、とても女性が書いていると思えない。
感覚的な美しい文章も好きだが、こういう硬く鋭い文章も悪くない。
久しぶりに読み応えのある物語に出会った。幸せである。

